横浜地方裁判所 昭和41年(ワ)47号 判決 1968年1月30日
主文
1 被告は、原告に対し三〇〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四〇年一二月二六日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用は一〇分しその一を原告の、その九を被告の、各負担とする。
4 この判決の第一項は、仮に執行することができる。
事実
第一、双方の申立
原告訴訟代理人は、被告に対し「被告は原告に対して三二〇、〇〇〇円およびこれに対する昭和四〇年一二月二五日から完済に至るまで年六分の割合による金員を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。
第二、原告の主張
一、被告は、次の約束手形一通を振出した。
1 金額 三二〇、〇〇〇円
2 満期 昭和四〇年一二月二五日
3 支払地ならびに振出地 横浜市
4 支払場所 株式会社北海道拓殖銀行横浜支店
5 振出日 昭和四〇年一〇月三〇日
6 宛名人 浜島彦四郎
二、浜島彦四郎(以下浜島という。)は、右手形に裏書をして原告に交付し、原告は現に右手形を所持している。
三、原告は、株式会社東京都民銀行に対して取立を委任し、同銀行は右手形を満期に支払場所に呈示した。
四、よつて、原告は振出人である被告に対して本件手形金三二〇、〇〇〇円およびこれに対する満期日たる昭和四〇年一二月二五日から完済に至るまで手形法所定年六分の割合による利息金の支払を求める。
五、仮りに右手形が振出権限のない吉田康夫(以下吉田という。)の作成にかかるものであるとしても、吉田は本件手形振出当時、被告の経理担当社員であつて、見積、請求、検収等について担当の権限を有しており経理会計の事務全般を担当しており、又吉田の責任において被告のゴム印等を管理し、手形用紙、チエツクライターも吉田の容易に使用しうるものであつた。従つて、吉田の本件手形振出行為は、同人の有する権限を超えてなされたとしても、原告は、吉田が経理事務担当社員として被告を代理し権限を行使していた右の如き事情及び本件手形の手形用紙は、被告の取引銀行所定のものであることは、原告をして、本件手形が振出権限を有する者によつて振出されたものと信じて取得するにつき正当な事由があつたというべきである。
よつて、被告は原告に対し民法一一〇条にもとづき表見代理人たる吉田が作成した本件手形の振出人としての責任を負うべきである。
六、被告に対する予備的な第二次の請求原因として、
仮りに本件手形が吉田によつて偽造されたもので、被告に手形上の責任がないとしても、吉田の前記職務の内容からみると、同人の本件手形の作成行為は、被告の事業の執行についてなされたものというべく、原告は、吉田の偽造行為により本件の手形金三二〇、〇〇〇円の支払を拒絶されて得ることができず、よつて、右金額に相当する損害を被つたから、被告は、吉田の使用者として民法七一五条にもとづき原告の損害を賠償するべき義務がある。
よつて、原告は、被告に対して金三二〇、〇〇〇円およびこれに対する吉田の偽造行為の後である昭和四〇年一二月二六日から完済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
七、被告の主張及び抗弁事実についての認否
本件手形が、被告の取引銀行所定の手形用紙を使用し、被告会社名及び社長名のゴム印、取締役印、その他の文字印がいずれも被告会社のものである事実は認めるが、その余は否認する。被告の抗弁事実はいずれも否認する。
第三、被告の主張
一、被告が、本件手形を振出したとの原告の主張事実は否認する。すなわち、本件手形は、何ら振出権限のない吉田が偽造したものであるから、被告に本件手形金の支払義務はない。吉田は勝手に被告の取引銀行所定の手形用紙、被告会社名及び社長名のゴム印と被告会社の取締役印、その他の文字印など被告会社保有の印を使用し、本件手形を作成したものである。
なお、本件手形に使用されている取締役印は銀行取引や正式の文書に押印するものとは異つて、いわゆる認印であり、銀行に正規の登録をした印ではない。
二、原告の第一次的主張事実に対する認否
(一) 第一項は否認する。
(二) 第二項主張事実中、原告がその主張の手形要件の記載ある本件手形を所持している事実は認めるが、その余の事実は否認する。
(三) 第三項は認める。
(四) 第四項は否認する。
(五) 第五項は否認する。すなわち、
(1) 原告は民法一一〇条にいう第三者に該当しない。民法一一〇条にいう「第三者」とは、代理人と法律行為をなした直接の相手方をいうものであり、手形行為においても同様であるといわねばならない。ところで本件事実関係についてみるに、吉田が偽造した手形は三浦秋夫(以下三浦という。)、浜島、原告と順次流通しており、三浦、浜島両名はいずれも本件手形が偽造である事実を知つてそれぞれ相手方に交付した。従つて、原告は吉田と直接の接触はないのである。
(2) 表見代理制度の基本理念からみても原告は表見代理制度の保護をうけることはできない。
表見代理制度は、代理制度の社会的信用を維持するためには、本人の利益をある程度犠牲にしても取引の安全、善意者の保護を図ろうとするもので、いわゆる例外的制度として存するものである。すなわち、他に取引上の正当な原則的法理が適用され、それで取引上の安全、保護が維持されるような場合には、表見代理の法理を適用すべきでなく、まず原則的法理が適用されるのである。本件について考えるに、原告は本件手形を浜島より裏書譲渡をうけ取得したものである。つまり、原告は浜島に対してすでに本件手形金の支払請求権を有しており、従つて、それによつて取引上の保護をうけているといわねばならない。原告は表見代理制度による保護をうける利益はない。
三、原告の第二次的主張事実についての認否
(一) 吉田が被告の被用者であり、計理事務を担当していた事実本件手形について支払拒絶がされた事実はいずれも認めるが、その余は否認する。
(二) 原告は被告に対し民法七一五条の使用者責任を問うことはできない。すなわち、
(1) 民法七一五条は第二次的な責任であり、補充的な性格を有する規定である。従つて、不法行為として以外の責任を追求しうる場合には、使用者責任による責任追求は許されない。原告は本件手形を裏書譲渡により取得したと主張し、従つて、原告は裏書人に対して責任を追求できる立場にある。
(2) 不法行為の理論上、たとえ吉田の行為が職務執行行為であるとしても、対世的にも職務執行行為と評価されねばならぬと解することはできない。吉田の行為が職務執行行為と評価されうるのは、吉田が行動した直接の相手方との間においての問題である。原告は、吉田の行為と直接の関係なく本件手形を取得した。
(3) 原告は何らの損害を被つていない。
(a)原告は、浜島より本件手形を裏書譲渡されたものであり、原告は被裏書人として本件手形金請求権を浜島に対して有しており、損害を被つているとはいえない。
(b)原告は、本件手形を取得するについて何らの出捐をもしていないか、或は手形金額に充たぬ金額しか出捐しておらず、又、その後代物弁済をうけたり、譲渡担保による権利行使をしたりして、実質的な損害を被つているとはいえない。
四、原告の第二次的請求原因に対する抗弁
(一) 吉田の手形作成行為が、被告の被用者としての業務執行にあたるとしても、被告はその被用者である吉田の選任及びその職務の監督を充分になしており、相当の注意を払つていたから免責されるべきである。
(二) 仮りに被告が使用者責任を問われるとしても、原告の被つた損害については、原告にも過失があつたというべきであり、その損害額については相殺されねばならない。
すなわち、原告は金融業者である。従つて、手形の交付を受けるのと引換えに金員などを交付するにあたつては、当然、振出人たる被告の信用調査、その前提として振出についての正当性の調査をなすべきであるにもかかわらず、原告はこれらの点についての配慮、調査を十分にしなかつた。よつて、本件損害の発生については、原告にも過失があつたといわねばならない。
第四、証拠(省略)
理由
一、原告主張事実のうち、原告がその主張のような手形要件の記載ある本件手形を所持していること、支払場所に支払のための呈示をしたが支払を拒絶されたこと、本件手形振出部分に使用されている被告社名および社長名の印、その他の文字印はいずれも被告保有にかかるものであること、本件手形用紙は、被告の取引銀行所定の用紙であること、吉田が被告の被用者で経理事務を担当していたことは、いずれも当事者間に争いがない。
二、証人吉田康夫、同三浦秋夫の証言によれば、本件手形は吉田が訴外三浦の依頼をうけて同人に金融を得させるために被告会社代表者に無断で被告会社に備えつけの有り合わせ印を冒用して被告名義で作成し、三浦に対して交付した事実が認められ、又証人吉田康夫の証言および被告代表者本人尋問の結果によれば被告会社における正規の手形の作成にあたつては、取引銀行に登録ずみの印章は、被告会社代表者で取締役社長である小沢幸三郎が保管し、自ら登録印を押捺して手形を完成させていたものであること、本件手形に押印されている印影は、右登録印によるものではなく、いわゆる認印によるものにすぎないことが認められる。
右認定を覆えし本件手形が被告によつて真正に作成されたことを認めるに足る証拠はない。
右認定事実より判断するに、本件手形が偽造であるとの被告主張事実は、これを肯定せざるをえない。従つて、被告は本件手形の振出人としての責任を負担しない。
三、よつて、原告主張の民法一一〇条による表見代理の責任について判断する。
手形の偽造といつても、被偽造者に手形外観の作出につき責むべき重大な原因があり、第三者において真正な手形との認識のもとに取得する場合もありうるのであるから、手形制度の特質たる流通性保護の見地からして、被偽造者がいかなる場合にも手形上の責任を負わないと解することは妥当でない。すなわち手形の偽造にあつては、手形の記載に相応する権利が実質的に存在せず、従つて、それを信頼する手形取得者と真実の不一致という現象を手形上の権利の流通の促進という手形制度の使命に照らして調和を図るべく考慮しなければならない。
かような観点からみるに、手形偽造の場合にも表見代理に関する規定は類推適用の余地があると解するのが相当である。
しかしながら、本件では被告は原告に対し民法一一〇条の表見代理による義務を負わない。その理由は左のとおりである。
(一) 原告本人尋問の結果によると、原告は本件約束手形を、その満期前に浜島から裏書譲渡を受けたが、右譲渡を受けるに当つては、浜島から右手形を同人が原告から売買取引に関して受取つたということを聞いただけであり、右手形が偽造されたものであるとか、吉田が振出の権限がないのに被告名義を冒用して振り出したものであるとかの事情は露知らなかつたと認めることができ、この認定に反する証拠はない。
右事実によると、原告は本件手形を取得する当時、吉田が原告のため手形の振出をする権限があると信じたとか、吉田に原告のため手形振出の資格があると信じたとかいう事情は全く認められないのであるから、この点で原告の本件手形取得は民法一一〇条の表見代理成立の要件を欠くといわざるを得ない。
(二) 証人吉田康夫、同三浦秋夫の各証言、被告代表者尋問の結果に本件弁論の全趣旨を綜合すると、被告会社の経理事務担当社員であつた吉田が被告会社に在職中の昭和四〇年一〇月頃知人の三浦の依頼を受けて、被告代表者に無断で、本件手形を偽造して三浦に交付したものであるが、本件手形の名宛人兼第一裏書人たる浜島は、本件手形を吉田が偽造したものである情を察知しながら三浦から本件手形を受取つたものであると認めることができ、この認定を左右する証拠はない。
本件において、原告は本件手形を浜島から裏書譲渡を受けたと主張するが、右認定のとおり浜島は本件手形が偽造されたものであることを察知しながらこれを取得したものであるから、仮に原告が本件手形を転得するに際し善意無過失であつても、前者たる浜島が悪意の取得者である以上、原告は民法一一〇条の表見代理による保護を受けられない。
よつて、原告の表見代理の主張は理由がない。
四、次に民法七一五条による責任について考察する。
思うに、民法七一五条にいわゆる「事業ノ執行ニ付キ」とは、被用者の職務の執行行為そのものには属しないが、その外形からみて、被用者の職務の範囲内の行為に属するとみられる場合をも包含すると解するを相当とする。
ところで、証人吉田康夫の証言、被告代表者本人尋問の結果によると、吉田は昭和三六年九月頃被告会社に入社し、以来経理事務を担当し在職中本件手形を勝手に被告名義で作成して三浦に交付したこと、吉田は被告会社においては労災、税務、帳簿の記入整理の事務を全般にわたつて担当し、また手形振出に関する資金計画を立案し、手形振出を必要とすればその旨被告代表者たる小沢幸三郎に報告してその指示ないし承認を受け、被告会社の取引銀行から購入した手形用紙に所要事項を記入し、被告会社名及び社長名のゴム印、その他の文字印を手形用紙に押印していたこと、吉田の記入押印した右手形用紙は、被告の代表者小沢幸三郎が最後に代表取締役印をみずから押印して手形を完成して他に交付していたこと、手形作成に用いる代表取締役印以外の印章、その他の文字印、手形用紙等は経理事務担当者たる吉田が保管し、また、自由に使用できたこと、手形を振出すに際しては手形記入帳に発行手形をそのつど記入していたことが認められ、この認定に反する被告代表者本人の供述部分は信用できないし、他に右認定を左右する証拠はない。
さて、本件では、被告会社の被用者たる吉田は、右認定のとおり被告会社の手形振出に関し会社の社名印、その他のゴム印等を使用して被告会社代表者小沢幸三郎がその名下にみずから保管する代表取締役員の印章を押捺しさえすれば手形が完成するばかりに手形用紙の記載をすませ、かつ、手形記入帳に手形発行の旨を記入するなどの職務権限を有していたところ、吉田康夫は右権限を濫用し被告代表者の承認を得ないまま、かねて被告会社が取引銀行から買求めておいた手形用紙に会社名、社長名、その他の印を押捺し、あり合わせの被告会社取締役の印章(前示被告代表者が手形作成に常用した印章と異るもの)を押印して本件手形を偽造したうえ、これを行使したものである。これによつてみるに、吉田による本件手形の偽造行使は、これを客観的に判断し、被用者たる同人の職務の執行行為そのものには属しないが、その行為の外形から見て、あたかも被告の被用者たる吉田康夫の職務の範囲内の行為に属すると見られるし、本件のような手形振出が客観的にみて被告の事業の範囲に属するとみられることも当然である。従つて、吉田の使用者たる被告は、吉田による本件手形の偽造行使によつて損害を被つた第三者があれば、その損害を賠償するべき義務があるといわなければならない(もつとも、被害を蒙つた第三者の側で、本件手形の偽造であることの情を知り、又は重大な過失によりこれを知らないで本件手形を取得したような特段の事情がある場合には、被告に責任がないこととなるが、本件では後に説示するとおりかかる特段の事情ある場合とは認められない。)。
原告本人尋問の結果によると、原告は昭和四〇年一〇月ないし一二月二五日頃までの間に七、八年来の知り合いである浜島から、同人が売買取引の対価として取得した本件手形の割引を依頼されたので、本件手形が真正に作成された手形であると信じて右依頼を承諾し、浜島から本件手形の裏書譲渡を受けるのと引換えに割引代金として現金三〇万円を支払つたが、未だに本件手形金の支払を受けることができないのみならず、右三〇万円の返還をも受けていないことが認められる。
そうすると、本件手形が偽造されたのに、これを真正に作成されたと信じてこれを取得した原告は、被告の被用者たる吉田康夫の本件手形偽造行使によつて三〇万円の損害を蒙つたということができる。
以上説示したところによれば、被告は吉田の使用者として、原告に対し右三〇万円及びこれに対する不法行為による損害発生の後である昭和四〇年一二月二六日から完済まで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払うべき義務がある。(被告は民法第七一五条による責任は、第二次的補充的な責任である旨主張するが、右被告主張の法律見解は、法律上の根拠が薄弱であり、使用者責任の範囲をことさらに狭く解する謬見であるからこれを採らない。)
五、被告は民法七一五条一項但書の免責事由があると主張するので判断する。
証人吉田康夫の証言、被告代表者本人尋問の結果によると、被告会社では吉田康夫を昭和三六年九月頃採用したが、採用するに至つたのは、吉田が以前勤めていたがその頃倒産した大英建設という会社の代表者橋爪有宗の推せんにより採用したものであり、採用試験は行わず身元保証人を立てさせる等の処置も取らなかつたことが認められる。右認定事実によれば、被告は吉田康夫の選任に当り相当の注意を尽したということができないし、その他本件にあらわれた全証拠によるも被告主張の免責事由があることを認めることができない。従つて、被告の右主張は排斥する。
六、過失相殺の主張につき考察する。
原告本人尋問の結果によれば、原告は浜島から本件手形の割引を依頼され本件手形を割引くに当り、自己の取引銀行たる東京都民銀行大井町支店に電話して被告会社の信用関係を尋ねたところ、被告会社は信用のある確かな会社だから大丈夫だとの応答を得たうえ本件手形を取得したことが認められる。この認定を覆えし、被告主張のような過失が原告にあることを認めるに足りる証拠はない。(原告本人の供述中には、原告が被告会社へ本件手形の真否につき問い合わせた旨の供述部分があるが、証人吉田康夫の証言と対比して右供述部分は信用しない。)
右認定事実によると、原告は本件手形の取得にあたり、自己の取引銀行に依頼して振出人たる被告の信用調査を行い、その結果被告の信用状態に不安のないことを確かめて本件手形を取得したものであり、前説示のとおり本件手形上の手形要件の記載に遺漏がなく、かつ、通常の売買取引に伴つて振出されたことを知つて取得したものであるから、これ以上に本件手形の真否につき立入つたせんさくをしなかつたとしても、原告は取引上一般に要請される注意義務をつくして本件手形を取得したというべきであり、原告に損害額算定上しんしやくしなければならない程度の過失があるとはいえない。よつて、過失相殺の主張は採用できない。
七、以上のとおりであるから、原告の本訴請求中手形割引して被つた損害金三〇万円及びこれに対する昭和四〇年一二月二六日から完済まで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める部分は正当として認容し、その余は失当として棄却すべく、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。